塾の歩み

塾長 豊島信一 本年塾開設40年目になります。最初は一般企業に勤務しながら、自宅の離れを使って近所のお子さん対象に始めました。実は大学在学中から卒業したら学習塾を始めるつもりでいました。そのきっかけになったのは、私の浪人中と大学生時代の経験でした。

 私は、常総市の隣、つくばみらい市(旧谷和原村)の出身です。地元の小中を卒業後、常総市(当時水海道市)にある水海道一高に入学しました。
 中学時代に特に受験勉強もせず、なんとなく合格してしまったのと、高校卒業後に対する目標の無さから、入学後もかなりいい加減な学校生活を送っていました。部活はバスケット部で、毎日練習して帰宅は夜といった生活で、成績は下位レベルが定位置でした。それにも関わらず、なんとなく卒業したら中堅私立大学くらいには進学できるのではないかという根拠のない思い込みがなぜかあったのです。3年になっても、特に受験勉強をするでもなく、また当時は担任の進路指導もなく、適当に受験した結果、当然のように全くかすりもせず不合格で、浪人生活を送る羽目に。受験も2校受験したのですが、落ちても同級生に言い訳できそうなレベルを選び、滑り止めなどは全く考慮しないという、端から玉砕覚悟というものでした。

 そのころは予備校といえば東京に行くしかない時代で、私も都内某所にある予備校に通いました。予備校もどこがいいかも調べず、友人が行くところに一緒に入学という程度でした。入学後はそれなりに学習し、受験勉強が面白く感じられるようになった浪人生活3カ月くらいの時のこと、受講中にふと怒りの感情がわいてきたのを今でもよく覚えています。それは、受講している授業が非常に判り易かったからなんです。
 それはなぜかというと、それまでは「授業は判らない」というのが、自分の意識にあって、適当に聞き流していたのが、予備校の授業が、「よく判った」という自分にとって衝撃的な事態に、自分で何かに対して怒りが込み上げてきたのです。

 それは、「今まで自分は何をやってたんだ。やればできるじゃないか」という自分に対する、また「中学や高校の授業は一体何だったんだ」という(身勝手な)怒りでした。そして、こういった授業を身近に受講できる都会の高校生に対して、田舎の高校生の不利な状況を実感したのです。大学受験という同じ土俵で戦うのは、田舎の生徒に圧倒的に不利ではないか?という想いが自分の中に広がっていきました。
 その思いを抱きながら、受験勉強に打ち込み見事難関大学に合格したら、かっこいいのですが、都会生活に慣れたころから、いろんな楽しみに誘惑され、楽しい浪人生活を送ってしまい、受験が迫ってきてから焦って勉強して、何とか大学生となりました。

大学生になってからは、都会育ちの学生との交流の中で、圧倒的な情報格差、学習環境の違いなど挙げればきりがないその格差に愕然としたものです。また、大学の序列や学校格差の実態も否応なしに感じるようになりました。そして、田舎の生徒に不利な状況を変えるため、都会の生徒に負けない学習環境を設け、情報を与え、目標を設定し、しっかりと学習していくための学習塾を作ろうと決意したのです。

 学習塾を始めて10年が過ぎたころです。それまで大学受験のお世話が満足のいくものではなく歯がゆい思いがあったのですが、映像授業という新しいコンテンツに出会い、高額な投資ではあったのですが、思い切って加盟したのが「東進衛星予備校」でした。設置当初は、テレビデオで再生する方法だったので、テレビで授業をしていると揶揄されましたが、初年度から有名大学に合格者が出るなど成果を上げることができました。
 以来、大学受験において、最高峰の東京大学はじめ、北海道大学、東北大学、九州大学、京都大学、また難関大学である筑波大学、地元茨城大学などに多数の合格者を輩出しました。私立の最高峰である、早稲田、慶応を筆頭に、ICU、明治、法政、青山学院、立教、中央などの名門大学にも合格者を出してまいりました。
 そして、こういった上位大学だけでなく生徒の個性にあった大学選びにも注力しています。例として、立命館アジア太平洋大学に進学したI君は、多くの外国人留学生との交流で特にインドネシアに多くの友人を得て、何回かの滞在でインドネシア語をマスター、AIU国際教養大に進学したYさんはその後ロンドン大学に留学、ICU卒業後に国立大学医学部に合格し、医師になったI君、など多くのユニークな進路に進む生徒を応援してきました。

 最高峰レベルにチャレンジしたり、自分の個性を伸ばしてくれる学校選びをしたり、そんな自分の夢をかなえる場として、開智学院の門を叩いてください。

 

お問い合わせは 0297-23-4091

▲ このページの上に戻る